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「万全の配慮」で信長を感激させた家康

史記から読む徳川家康㉖

 翌1582(天正10)年116日、2年前に追放した佐久間信盛(さくまのぶもり)が病死したことを知った織田信長は、気の毒に思ったのか、その息子である信栄(のぶひで)を赦免(しゃめん)。旧領を安堵した(『信長公記』)。

 

 2月1日、武田方の木曽義昌(きそよしまさ)が織田家に内応したため、信長は出陣。同月3日、信長は駿河口から家康を、関東口から北条氏政(ほうじょううじまさ)を、飛騨口から金森長近(かなもり ながちか)を、それぞれ侵入させ、武田征伐が始まった。信長自身は、嫡男・信忠(のぶただ)を連れて伊那口より進軍している(『信長公記』)。

 

 そして31日に、武田家重臣の穴山信君(あなやまのぶただ )が徳川方に寝返った(『家忠日記』)。同月11日、勝頼は天目山の戦いで敗北し、自刃(じじん/『理慶尼記』)。勝頼の首はすぐさま信長のもとへ送られた(『信長公記』)。16日、信長は勝頼の首を京でさらすよう指示(『信長公記』)。17日、家康は信濃国諏訪(しなののくにすわ/現在の長野県諏訪市)に信長を訪ね、対面している。

 

 22日には、京に勝頼の首が到着。獄門に架けられた(『言経卿記』)。そして29日、信長は旧武田領を家臣に分配。家康には駿河国(するがのくに/現在の静岡県東半部)が進呈された(『信長公記』)。

 

 4月10日、戦後処理を済ませた信長は、甲斐国(かいのくに/現在の山梨県)を出発。この時、家康が街道を拡張したり、落ちている石を取り除いたりすることで信長の行路に万全の配慮をし、また信長の配下への食事や宿泊場所などにも気を配ったため、信長は感激したという(『信長公記』)。

 

 道中は各地の旧跡などを巡る、いわば凱旋旅行だった。同月12日には、富士山の裾野で信長の小姓衆が無闇矢鱈(むやみやたら)と馬を乗り回して大騒ぎをしたという(『信長公記』)。宿敵・武田を滅ぼした信長の家来たちは、いよいよ天下統一が目前に迫ったことで、異常に興奮していたとも受け取れる。

 

 居城である安土城(あづちじょう/滋賀県近江八幡市)に信長が帰ったのは、421日のこと(『信長公記』)。武田征伐に出かけてから、約2か月半後のことだった。

 

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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